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屋形船の歴史(組合の案内から)
歴史の流れ屋形船東京都協同組合の歴史のページによると、屋形船の原型は平安の時代にあり、竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船で遊覧しました。江戸の初めに大型化・豪華化し、庶民が楽しむようになったのは江戸の後期、戦争と高度成長期に衰えたのち、1980年代のバブル期に復活しました[1]。
時代ごとの変化
| 時代 | 組合のページの記載 |
|---|---|
| 平安期 | 屋形船の原型があり、竜頭鷁首の船で遊覧した。 |
| 江戸の初め | 船が大型化・豪華化した。 |
| 1657年の明暦の大火のあと | 一時、鎮静した。 |
| 江戸の中ごろ | 屋形船は武家の乗り物で、庶民は小型の屋根船に乗った。 |
| 江戸の後期 | 船宿や料理屋が質素な屋形船を持つようになり、庶民も楽しめるようになった。 |
| 戦争の時期 | 衰退した。 |
| 高度成長期 | 水質の悪化や護岸工事で、ほぼ姿を消した。 |
| 1980年代 | バブル期に復活した。 |
歴史から読む、今の屋形船
- 屋根船と屋形船:歴史のページは、江戸の庶民が乗ったのは小型の屋根船で、屋形船は武家用だったと書いています。今、東京湾で乗る屋形船は、その流れをくむ大型の船ですが、昔のままではありません。
- 船宿の役割:船宿や料理屋が船を持った歴史から、今も屋形船の会社の名前に「船宿」と付くところが多くあります。当サイトの会社の面でも、船宿釣新・船宿三浦屋・船宿内田・舟宿三河屋が、その名で載っています。
- 復活の背景:川の水質や護岸の変化で一度は姿を消したことは、今、東京湾と隅田川が使えること自体が、水質の改善などの条件の上に成り立っていることを示しています。組合のサイトは、お台場の水質に関する取り組みも案内しています[2]。
屋形船の歴史は、組合の公式ページの記載に基づきます。学術的な年代や細かい事実は、公式のページ以外では確かめていません。
隅田川の橋と川の歴史(区・都の案内から)
- 両国橋は、創架が1659年と言われ、隅田川の主な橋のなかで最古です。吾妻橋は創架が1774年で、現在の橋は1931年に架け替えられました。
- 墨田区の資料では、蔵前橋の右岸に幕府の米蔵(浅草御蔵)があり、厩橋の西岸に御米蔵に付属する御厩があって、「御厩の渡し」がありました。
- 勝どきの地名は、日露戦争の勝利を記念した「勝どきの渡し」にちなみ、月島は1887年(明治20年)からの埋め立てで生まれました。
- 大森は海苔の養殖の発祥の地で、1963年に海苔の養殖の歴史が幕を閉じました。
それぞれの場所は、浅草橋・蔵前・両国、勝どき・晴海、大田区の面でくわしく書きました。
水質のいま
歴史のページが、高度成長期に水質の悪化で屋形船がほぼ姿を消したと書く一方、江東区は、令和7年度の水質調査で、区内の河川のBODの平均は環境基準を満たして推移していると発表しています[3]。川の水質は川ごとに違うため、隅田川の数字は別の自治体の調査にあたる必要があり、ここでは確かめていません。
この面で確かめていないこと歴史のページの記載以外の出典(文献・博物館の資料など)は確かめていません。年代は組合のページの表記のままです。
出典
- 屋形船東京都協同組合 屋形船の歴史(2026年11月7日に確認)
- 屋形船東京都協同組合 トップページ(2026年11月7日に確認)
- 江東区 河川の水質調査(2026年11月7日に確認)